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錦木塚物語

昔、今の錦木(にしきぎ:鹿角市十和田錦木)の地域を都から来た狭名大夫(さなのきみ)という人が治めていた。その人から8代目になる狭名の大海(おおみ)という人には、政子姫(まさこひめ)というとても美しい娘がいた。政子姫は細布を織るのがとても上手な人であった。

 

一方そのころ、近くの草木(くさぎ)というところに、錦木(にしきぎ)を売ることを仕事にしていた若者が住んでいた。錦木というものは、「仲人木(なこうどき)」とも言って縁組に使うものであり、当時は、男性が好きな女性の家の前に錦木を置き、その錦木を女性が拾って家の中に入れた場合は、結婚してもよいという意味の決まりがあった。

ある日、若者は市日のときに政子姫を初めて見て、その美しさにひかれ恋いこがれてしまった。若者は、翌日から毎日毎日、雨の降る日も風の吹く日も雪の吹雪く日も一日も休まず、政子姫の家の門の前に錦木を持ってきては立てた。

 

しかしながら、錦木は一度も拾われて家の中に入れられることはなく、家の前に立てられたまま増えるばかりであった。そのたびに若者は草木へ戻る帰り道のそばの小川で、涙を流して泣いた。その川は、のちに涙川と言われるようになった。

一方、政子姫は、家の門の前に毎日錦木を立てられているうちに、機織りする手を止め、こっそり若者の姿を見るようになっていた。そして、いつの間にか、政子姫も若者を好きになっていた。たが、いくら若者が錦木を立てても、身分が違うことや、もう一つ重大な訳があって結婚の約束はできなかった。その訳というのは、次のようなことである。

 

当時、五の宮岳(ごのみやだけ)の頂上に巣を作っている大ワシが里に飛んできては子供をさらっていた。あるとき、若い夫婦の小さい子供が大ワシにさらわれて村人がとても悲しんでいたとき、ある一人の旅の坊さん、「鳥の羽根を混ぜた織物を織って子供に着せてやれば、大ワシは子供をさらっていかなくなる。」と教えてくれた。布に鳥の羽根を混ぜて織ることは非常に難しく、よほど機織りがうまくなければできないものであった。そのため、機織りの上手な政子姫は皆からお願いされていた。政子姫は、子供をさらわれた親の悲しみを自分のことのように思い、3年3月を観音様に願かけしながら布を織っていたのだった。その願かけのために、政子姫は若者と結婚する約束ができなかったのである。

 

若者は、そういう理由も知らず、毎日せっせと3年もの間、錦木を姫の家の前に立てていた。あと一束で千束になるという日に、体がすっかり弱くなった若者は、門の前の降り積もった雪の中に倒れて死んでしまった。

政子姫は非常に悲しみ、それから2、3日後に、若者の後を追うように死んでしまった。

姫の父親の大海は、2人をとっても不憫に思い、千束の錦木と一緒に、一つの墓に夫婦として埋葬した。その墓が後に錦木塚と呼ばれるようになったものである。

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